松原広長・今村城跡

 松原下総守源広長は、『張州府志』(宝暦2(1752)年完成)には、今村の人物で、文明5(1473)年に今村八王子社神社の神祠を建てたと記されている。同書に、赤津の万徳寺には寺へ寄進した証文(万徳寺蔵『松原広長寄進状』(市指定文化財)には寛正5(1464)年に田畠・太子堂の寄進について記載)があり、永井氏との合戦で自害したと記される。松原氏は広長の父吉之丞(『張州雑志』では、吉之丞は広長の幼名と推察)の頃は三河の今村(安城市)に在ったが、その後越戸(豊田市)城主を経て、瀬戸へ移ったとも伝えられる(戸田修二1966『瀬戸古城史談』)。同書に、広長の頃には今村の隣村本地・赤津を併領して勢力を張ったが、文明14 年(1482)の大槙山おおまきやま合戦で品野の桑下城主永井(長江)民部との戦いで敗れた。『張州雑志』(天明8(1788)年完成)にも、松原広長が応仁・文明(1462~87)の頃に今村城主であり、水野と瀬戸の間の安戸やすど坂で戦死したと記されている。安戸坂の広長の戦死した場所は「殿死洞とのしにぼら」(現在の小金神社付近の谷地とされる)呼ばれ、万徳寺には、自害した広長の首を祀る松原塚が残されている。
  今村城は別名「松原城」とも称され、その規模は東西50 間(90m)、南北60 間(108m)で、四方に幅5 間(9m)一重の堀を巡らせ、南側のみ二重の堀とし、土塁の高さは2丈(6m)の城構えであったことが推定されている。平成25年には、住宅建設工事に先立ち発掘調査が行われ、南面二重堀のうち、内堀の一部が確認されている。現在は、今村の八王子神社北西端に外堀の一部が池として残されている。松原広長の八王子神社創建時には、その神宮寺として、今村城域守護のために八王子大明神・薬師如来を勧請し医王山八王寺を開創したとされ、今日の慶昌院の草創であるとされる。

参考文献
愛知 正敏1990『松原広長公 尾張今村城主物語』中日出版社 愛知県郷土資料刊行会
河合君近2015『市内遺跡調査報告Ⅷ 今村城跡』瀬戸市文化振興財団調査報告書第58集

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