歴史に詳しいもの知りの高校生。戦国時代の武将、永井民部(一説には長江民部)の末裔。
新しいしいもの好きでアウトドア派の若者。日本史の年号語呂合わせが好き。戦国時代の武将、松原広長の末裔。
1、尾張名古屋の「鬼門」の地
「瀬戸」って不便なところだよね。名古屋駅からも直通で電車がつながっていないし。名古屋中心で考えると、北東の奥まった感じだなあ。
昔から、北東の方角は、鬼がやってくる「鬼門」とも言われ、恐れられていたともいうよ。
「オニのモン」?地獄の入り口みたいで、オドロオドロしいな。瀬戸は、尾張(愛知県西部)の国の中でも、北は美濃(岐阜県南部)、東は三河(愛知県東部)の国境の場所だよね。
定光寺って紅葉の名所で有名な山寺の定光寺だよね。「鬼門」なんて、瀬戸からしたら迷惑な話だよ。まあ、もっともこの三つの国の国境をしっかり押さえておけば、尾張は守られるというのは、あながち迷信と笑い飛ばすものでもないかな。
2、尾張と三河の攻防戦
織田信長と今川義元といえば、信長の奇襲を受けて「イマゴロオーどろく(1560年)今川義元」って年号を覚えた「桶狭間の戦い」だよな。聞いたことあるけど、場所は瀬戸だっけ?
桶狭間も尾張・三河の国境近くだけど、瀬戸よりもっと南にある豊明と名古屋の境目さ。でも、もう一つ尾張と美濃の国境を結ぶ街道沿いの瀬戸の城が攻防の前線になってたんだ。
へー、瀬戸にそんな戦国時代のお城があったんだ!何ていうお城?
3、尾張と美濃・信州を結ぶ
「永井」って、君の先祖の話かい。
そんな戦国時代に、瀬戸で合戦があったのか。なんていう合戦だい?
今村城の松原広長をはじめとする瀬戸市南部エリアの今村方の武士が、桑下城の永井民部をはじめとする瀬戸市北部・美濃東部エリアの品野方の武士が出陣した安戸坂・大槙山の戦いだよ。「陣屋」という地名もその名残と言われているよ。文明14(1482)年の出来事。
…それで、どっちが勝ったんだよ。
ふふ、品野方ですよ。でも、敵の大将の首は取れなかった。敗色が見えてきたところで広長は自刃して、その首が万徳寺に届けられたというよ。
うーん。なんで、赤津の万徳寺なんだろう。
松原広長の父は、浄土真宗の万徳寺とともに三河から来た武士だったといわれ、赤津は尾張に入った最初の場所だったんだ。
4、尾張と三河を結ぶ
瀬戸は、三河とは三州街道で結ばれ、東はいまの豊田市小原地区とを結ぶ三州小原道、南は今の豊田市広見町を通って猿投神社まで通じていた三州広見道などがあるよ。
三河は昔、三州とも言われていたんだね。瀬戸の東も南も三河だもんね。
三州小原道の近くには、万徳寺や雲興寺があって、それぞれの寺の門前には町場ができ、江戸時代以前には賑わっていたようだよ。
5、尾張を見渡す
瀬戸には、東の三国山や南東の猿投山などの山があって、尾張を広く見渡せる場所でもあるね。岩屋堂の岩巣山なんかは平野を一望できて、ボクのお気に入りなんだけど。
山などからの眺めがいいということは、麓から見える山頂も目立つということ。古墳時代の初めには、山頂などに古墳を築き、葬られた長の存在を人々に誇示したようなんだ。
集落や田畑から見上げると、山の上に神様のようにクニやムラの長が祀られている。視覚的効果は絶大だなあ。ミンブくんのお気に入りはある?
瀬戸は、尾張名古屋北東の「鬼門の地」。まんざら悪くないかもしれない。
そうさ、今度、松原広長と永井民部との決戦の地に行ってみるかい?
行ってもいいよ。でも安戸坂や大槙山のあたりは、ほとんど陶土採掘場の瀬戸キャニオンになっていて、古戦場って感じじゃないね。戦国の景色が、近代瀬戸のやきものづくりの街ならではの景色に変わっている。これも歴史かな。