織田信長、松平信定・清定、今川義元

 16世紀前葉には、尾張守護代の一族であった織田信秀は、清州周辺から勢力を尾張・美濃・三河へと拡大するに及んだ。しかし、享禄2(1529)年に、三河との国境である品野(文書では「科野」「シナ野」と記載)では、三河の松平清康(徳川家康の祖父)の命を受けた叔父の松平信定・清定父子が侵入し、尾州(尾張)勢が敗退したため、品野城・桑下城は松平氏の勢力下に入った。
  天文21(1552)年に織田信秀死去により宗家の家督を継承した織田信長は、永禄元(1558)年に松平清定の子である家次の守る「科野の城」を攻めたが、家次は持ちこたえた。これにより、松平氏の後ろ盾となっている今川義元らは家次に感状(感謝状)を授けている。
 江戸時代の『寛文村々覚書』や『尾張古城志』には、「松平内膳家老」「松平内膳正家臣」として永井民部の名があり、「内膳正」は松平信定あるいは清定の官職名であるため、永井民部が三河勢の臣であったことを伝えている。