殿様街道(定光寺街道)

 尾張藩主の行列が通ったことから名づけられた。尾張藩初代藩主徳川義直が葬られた定光寺への墓参りの道として、また、水野で行われた狩りのために通う道でもあった。初代尾張藩主義直は、藩主として領国内の民情を把握するために鹿狩や鷹狩を盛んに行った。特に水野には元和8年(1622)以降20回以上訪れており、その際に訪れた定光寺の景色に感銘を受け、自らの墓所に定めたとされている。名古屋城から定光寺までは、約6里(24Km)の行程で、瀬戸市内では「中水野」交差点から水野大橋を渡って東光寺、そこから丘陵地帯に入って石坂峠までの区間が道として残っている。特に三沢町1丁目の住宅地北側から名城大学演習林までの間は、急坂部分には丸石による石畳が敷かれるなど、当時のままの姿を見ることができる。
  この街道は、名古屋大曽根から信州飯田街道で東進し、現在の尾張旭市の「砂川」の交差点から少し東の「つんぼ石」で左へ折れ、城山公園の前を通って、濁池、森林公園の乗馬場から瀬戸市水野団地、水野の東光寺、そして寺の東を北へ祠堂山の麓にそって山道を進んで定光寺へと続く道である。江戸時代、街道筋の村々に対しては、村ごとに人足を出させるなど街道の整備にも力を入れていた。坂の急な丘陵上のルートを避けて庄内川沿いから正伝山の南の沢から定光寺へ抜ける道もあり、「姫街道」とも称したという。
  殿様街道は定光寺からさらに東に延び、下半田川を通り美濃国の笠原村へとつながっており、下街道脇道とも呼ばれ、ここから下街道を経て中山道に通じており、祖廟参詣のための街道だけの街道ではなく、生活道路でもあった。

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