桑下城跡・品野城跡・永井民部
桑下城跡は、文明14年(1482)に今村城主の松原広長と戦って勝利を収めた永井民部(長江利景)が築いた城とされる。また江戸時代の『張州府志』には、品野の地を攻略した松平清康(徳川家康の祖父)から、品野城を与えられた松平内膳(信定)の家老として、長江利景が桑下城を居城としたとある。国道363 号線の改良工事に伴い城域の北半分の発掘調査が行われている。主郭部分では、西・北・東側を区画する巨大な堀切が確認され、丘陵西側曲輪の南東側に庭園と思われる空間があったことが明らかにされている。15 世紀後葉から16 世紀後半にかけての瀬戸窯製品や14世紀に京都で製作されたと考えられる「菊花双鶴鏡」などが出土している。
品野城跡は、桑下城跡から水野川を挟んだ南西約700の丘陵上に位置する。その位置関係から、居住する館城が桑下城、戦の際に詰める城が品野城であったとする説が有力である。築城は建保年間(1213~1219)で、大金左衛門尉重高によるものと伝えられている。その後、戸田氏や織田信秀の家臣坂井時忠、三河の松平信定など、尾張の織田勢と三河の松平・今川勢が争奪を繰り返し(享禄2(1529)年の享禄品野合戦など)、永禄3 年(1560)の桶狭間の戦いの敗戦により今川勢が衰退して、廃城となったとみられる。城跡は堀切を挟んで北と南に分かれ、北は東西に曲輪が連なり、南は横堀と土塁により南からの尾根を遮断している。これは、南側からの攻撃に対する防御が強く意識されたものと考えられる。
江戸時代の『寛文村々覚書』や『尾張古城志』には、「松平内膳家老」や「松平内膳正家臣」として永井民部の名があり、「内膳正」は松平信定あるいは清定の官職名であるため、永井民部が三河勢の臣であったことを伝えている。『尾張徇行記』には、上品野の祥雲寺について「内膳正位牌及家老長江刑部長江民部位牌ヲ安置ス」とも記載されている。『張州雑志』には、祥雲寺に「徳厳善隆庵主 俗名長江民部」が天正12(1584)年に没した旨の霊牌がかつてあったと記されている。『張州府志』には、桑下城は永井民部少輔であり松平家重(清定か)とその子の家次に仕え、後に織田の家臣となったと記載される。おそらくは永禄3年の桶狭間の戦い以降今川勢の衰退により、松平から織田へ服属する先を変更したと考えられる。
参考文献
小沢一弘ほか2013『桑下城跡』愛知県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第181集
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