棒の手

 「棒の手」は、棒や木刀、または真剣などを使い、主に二人から三人が型に基づいて行う民俗芸能である。愛知県の中央、いわゆる尾張と三河の国境を中心に分布する民俗芸能である。今日、武術を念頭に置いたいわば武技の芸能であり、祭礼の風流として存在する。
 「棒の手」は、もともとは祭礼の中における邪気を祓う行為がその発生にあり、その伝承に修験道の修験者が積極的に関わったことで武術化していったものとする説が有力である。近代の『猿投神社考』には、天文23(1554)年日進の岩崎城主丹羽勘助氏次が、その城下で棒術の技に長けたものを募り軍装したことに始まり、慶長5(1600)年に丹羽氏の旧領であった岩崎から猿投神社祭礼の帰路に棒の手を射穂神社へ奉納するようになったとする説話が記述されているが、氏次の年齢等事実と異なり史実としての信憑性は薄い。「馬の頭に棒の手はつきもの」と語られる地域は多いが、必ずしも献馬祭礼行事に棒の手は必須な構成要素ではない。しかし、馬の頭の祭礼の警固に棒の手を加えて見せ場を作ることで、修験者等の師匠が多くの習い手を得る機会にもなり、近世以降両者の接点は多く、棒の手の多数の流派が展開することとなった。
 山口・菱野(西脇)・本地には起倒流がみられ、西脇を除く菱野には片山見当流・検藤流・無二流・起倒流祈祷立棒の各流派がシマ単位で伝承されている。今村の藤巻沙門を始祖とする藤巻検討流は、現在長久手市から豊田市北部山間部に伝承されているが、発祥の地であった今村では文書・巻物類が残るのみで、棒の手は伝承されていない。

参考文献
鬼頭秀明1988「棒の手」『祭りと伝承 馬の頭と棒の手』日進町教育委員会
鬼頭秀明2017「祭礼と芸能」『新修 豊田市史 17 別編 民俗Ⅲ 民俗の諸相』豊田市

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