すえみず とおる
温厚でポジティブ思考。世話好きタイプで面倒見のいい兄貴肌だが、自分のこととなると不器用になる。ごく一部の人間しか知らない”秘密”があるらしい。
しょうじ あきと
基本は落ち着いていて冷静。少し不愛想で口下手だが、好きなものに対しては周りが驚くほど情熱的になることも。瀬戸のまちや、やきものが大好き。
1、「せともの」ブランドのルーツ
「せともの」って、俺たちの住んでいる瀬戸でやきものが盛んに作られていたからそういうんだよね。
「瀬戸物」の言葉は、永禄6(1563)年に書かれた織田信長の制札にも使われていて、そのころから茶会記などに「セト」の文字がみられるようになったんだ。当時は茶道具の天目茶碗や抹茶を入れる茶入などにその名がついて、名品として名があがっていたんだ。ブランドだよな。
相変わらず、瀬戸に詳しいなぁ!瀬戸でやきものづくりが始まってから千年だけど、織田信長の「せともの」ブランドができる前から瀬戸でやきものは作られていたんだよね。
なら、尾張瀬戸駅から歩いて15分の陶祖公園かな。俺たちの登場するスマホアプリ「とりっぷセトまち」の2つめのコースでも行けるよ。
2、ツクリテを探しに、洞を訪ねる
陶祖公園は、陶祖の業績を記した世界最大級の陶製碑(六角陶碑)がある公園。台座も含めた高さは、4.1mにもなるんだ。
やっぱり大きいな。来て見てみると実感する。陶器づくりといえば本業窯で知られる洞に行けば、陶器づくりの街やツクリテに出会えるかな。
陶祖公園の南、瀬戸川対岸の「洞」地区は、陶器生産が盛んな地区だったんだ。瀬戸では、窯焼きの際に色々な道具を使って製品を焼くけど、その廃材を利用しているよ。
「窯垣」だね。板や大小の丸い形のやきものを使って、石垣のように組んである擁壁や垣根だ。幾何学文様が面白いよな。瀬戸の市街地のあちこちにあるけど、洞の小径にも多い。
洞のある谷筋の斜面には、かつては登窯やせとものを作る工房(モロ)や屋敷がいくつもあったんだ。そんな斜面地に窯屋の仕事場や住まいを作るために、独特の窯垣が作られたんだよ。
窯垣の渋さは、そんな窯焼きのツクリテの生活とともにあるからでてくるのかな。窯焼きのツクリテについて知りたくなるな。
洞では、昔の窯元の屋敷を窯垣の小径資料館として保存されていて、洞の窯焼きの方法や作られた製品について知ることができるんだ。洞や隣の一里塚では、モロといわれる工房や登窯(洞・一里塚本業窯)・窯跡(洞窯跡の杜の窯跡)を見ることができるところもあるんだよ!
3、ツクリテを探しに、北新谷ほかを訪ねる
陶祖が、瀬戸の陶器づくりのブランドづくりの神様なら、さっき璃人が江戸時代に磁器を焼きはじめてバラエティ豊富になったって言ってた、その神様級の人物もいたよね。
加藤民吉のこと?江戸時代中頃から陶器生産地の瀬戸で磁器の生産を始めようと様々な窯屋が開発を模索している中で、文化元(1804)年、当時の磁器生産の本場九州に行ってそのノウハウを学んで、瀬戸の染付磁器を進歩させた「磁祖」と呼ばれる人だな。
民吉さんは「北新谷」の人だよね。
「とりっぷセトまち」で、俺たちがいつも最初に案内するところだね。民吉さんが祀られている、坂の上の窯神神社への階段はいつも璃人がしんどそうだけど。
…少し疲れやすいだけだから。
璃人はトレーニングが必要だなぁ~。よし、今度一緒に走りに行くか!
「せともの」を作って、売る。人が集まって、街ができる。街ができると、新しい文物が往来し、多くの労働者の姿に惹かれた北川民次などの芸術家も訪れる。
最近は若手のツクリテさんもがんばっているよね。
瀬戸川南側の新世紀工芸館、郷地区の染付工芸館研修所などが若手のツクリテの活動の場になっている。瀬戸川沿いの「せとまちツクリテセンター」はやきものだけじゃなく様々なツクリテを応援しているんだ。
せとものには、陶器もあり磁器もあり、伝統的な日用品もあり前衛的な芸術作品も作られている。いろいろなせとものに触れてほしいな。